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Vol.51「信頼に応えて」

【 コラム 】 2023.03.22

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和5年 3月 22日

 

NO.51 「信頼に応えて」

 

 

前号の「あてにされ 頼りにされて」で紹介した事例は、大人からあてにされたり頼りにされたりした子ども(たち)が、それに応えてこんな活躍をしたという話だが、もちろんそこでの心の動きは、大人同士、場合によっては子どもから頼りにされた大人においてもみられる。

 

さて本号では、あてにされること、頼りにされることに類似する「信頼される」ことで、何を置いてもそれに応えようとした私自身の体験談を披露しようと思う。以前も紹介した、リオ・デ・ジャネイロ日本人学校に派遣されていたときの話である。

 

 

〇 ものすごいインフレの中での貸し売り

 

私が時の外務省の派遣でリオの日本人学校にお世話になっていたのは、昭和60(1985)年から3年間であった。当時ブラジルではものすごいインフレで、貨幣価値が日に日に下がり、赴任1年後にはそれまで流通していた1000クルゼイロを1クルザードにする(ゼロを3つとる)デノミまで行われた。私が派遣直後に購入した車は、約700ドル(当時の日本円で18万円くらい)の中古車だったが、その支払いにはクルゼイロの最高額紙幣の札束を山と積むことになり、何か急に出世したような錯覚を覚えた。その映像は今も蘇ってくる。

 

品物の定価は頻繁に書き換えられ、例えばある日1ℓ 100クルゼイロだったガソリンが、翌日には200クルゼイロになることもあった。もっとも、ドル給料の私たちはこまめに現地通貨に換金して生活していたのでダメージは少なくて済んだ。

 

 

さて、本題に入ろう。それはある休日(土曜日)の朝のことだった。私はいつものように近くのパン屋さんにお使いに行った。早朝から、焼きたてのおいしそうなパンのにおいが店中に漂っていた。家内からのメモを頼りにパンを選び終えた私は、支払いをしようとレジの前に立った。店長さんから示された代金は日本では考えられないくらい安かった。ところがそれに見合う細かいお金を持ち合わせていなかった私は、最高額紙幣を出すことになった。日本で言えば、1万円札で数百円の買い物をするような状況である。すると、朝一なのでお釣りがないという。さて困ったと思っていたところ、そのご主人が神対応をしてくださった。

 

「日本人は信用できる。代金は後でいいから早く私の焼き立てのパンを家族に持っていけ。」とおっしゃる。先に紹介したように、ものすごいインフレの中である。通常は貸し売りなど考えられなかった。

 

 

私は一目散に家に帰り、パンを届けるやいなや細かいお金を持ってパン屋さんへと走った。息を切らしながらお礼を申し上げ、「日本人は信用できる。」というご主人が寄せてくれた信頼に全力で応えた。

 

 

〇 企業秘密相当の資料までいただいて

 

リオ・デ・ジャネイロ日本人学校では、中学部の学級担任、そして理科と技術科の教科を担当した。中3の技術では、2サイクルや4サイクルの内燃機関(エンジン)の仕組みを学ぶ単元があった。技術室には、日本から教材としてエンジンの実物が届けられており、生徒たちはそれを分解したり組み立てたりしながら興味深く学習を進めることができた。

 

ところで、ブラジルではアルコールエンジンの車が普及しており、「ガソリン」スタンドに行くと、ガソリンかアルコールかを聞かれる。私は、理科教師としても技術科教師としても、原油依存ではないアルコール燃料のエンジンに高い関心があったので、せっかくエンジンの勉強をしたついでに技術科の発展教材にしようと考えた。その趣旨を添えて何社かに資料提供を求めたところ、現地のVW(フォルクスワーゲン)社からは、工場見学のお誘いまでいただいた。

 

 

数日後、ポルトガル語の通訳を連れて同工場を訪問させていただくことになった。工場長さんがていねいに工場内を案内してくださり、締めくくりに応接室でコーヒーを振舞ってくださった。そして何と、「先生の目的としていることはすばらしい。これは企業秘密でブラジルの他社の者には見せられないが、日本の先生が生徒の勉強のために使うなら差し上げましょう。」と前置きして、アルコールエンジンの技術者用マニュアルをくださったのである。

 

 

「日本の先生が授業で資料として使う」ことに全幅の信頼を置いて、普通では考えられないような対応をしてくださった工場長さんのことを紹介しながら、授業で大いに活用させていただいた。

 

このマニュアルは、帰国の際、目が届く機内持ち込みの手荷物にして大事に持ち帰り、今も私の本棚に重要書籍として保管している。

 

 

〇 「日本の顔」であることの自覚

 

日本、日本人、また日本製品に対する並々ならぬ評価、厚い信頼を得て、私は日本人であることに誇りを感じた。そして、自分の言動は一個人のそれではなく、「信頼できる日本人」のそれであると考えるようになった。誰からも指導されたわけでなく、「日本の顔」であることの自覚は「信頼」されることから自然に生まれた。

 

 

その後私は、信頼を寄せることが人の育ちを支援する欠かせない姿勢だと考え、実践に努めてきた。