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Vol.37「ゆとりが先か充実が先か」

【 コラム 】 2022.12.07

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和4年 12月 7日

 

NO.37 「ゆとりが先か充実が先か」

 

早いもので今年も残りひと月を切った。師走を迎え、何かと気ぜわしく、小走りに行動することが増える時期になるとよく思い出すことがある。臼田町(現在は佐久市臼田)の臼田中学校で教鞭をとっていた時の話である。定例の職員会の冒頭ではいつも、学校長から職員向けの講話があった。私は、清水光明校長先生のそのお話を毎回ものすごく楽しみにしていた。これまで多くの師に出会い、教師としても、人間としても貴重な勉強をさせていただいてきたが、清水校長先生に開眼させられたことが少なくない。

 

 

ある時先生は、講話の中で私たち職員に「ゆとりが先か充実が先か」と興味深い問いを投げかけられた。その問いは、清水校長先生がある外部の会議に出席された際に、ある方の言動に接して自問されたものだという。その方とは、農村医療をはじめとして医学界で多大な功績を残された、時の佐久総合病院長若月俊一先生(平成十八年八月他界)であった。

 

 

〇 分刻みで動いておられるのに・・・(清水校長先生談)

 

「私は、健康づくりに関する会議等で佐久病院の若月先生とお会いすることが何度かありました。そして先生とお会いする度に、いつも驚かされていることがあります。分刻みで動かれている先生が、相対する者、周囲の者に忙しさを感じさせないのです。それどころか、たっぷりとゆとりがあるように思えます。予定時刻になって席を立たれる際も、ゆとりが感じられるのです。ある時私は、会に臨みながら、このゆとりはどこからくるのだろうかと、会議の内容とは異なる問題を一生懸命考えてしまいました。いわゆる暇などないはずなのに、・・・。私の導いた答えは、『ゆとりというのは、最初からあるものではなく、充実している人間から滲み出てくるものである。』でした。」

 

 

〇 ゆとりの本質

 

この話をお聞きして、私は「うーん、参った。」と思った。私たちはとかく、ゆとりがあるかどうかが先決問題で、ゆとりがあればもっといい仕事ができ、充実した時間を過ごせるなどと考えてしまいがちだ。ところが、それが誤りであることを導くのは容易で、多くの皆さんが体験を通して実感しているところではないかと思う。やるべきことを後回しにして、充実とは無縁な時間をたっぷりと過ごした後のことを想起(そういう体験のない方は想像)されたい。言いようのない空虚さに襲われるのである。やはり、物理的に時間があるというだけで「ゆとり」が生まれるものではない。

 

 

「分刻みで動かれている」という様子は、ゆとりとは縁遠くとらえられがちであるが、そうではない。ゆとりの本質は、そういう視覚に入る表層にではなく、見えにくい内面にある。内面のありようが充実している中に生まれるのだと思う。

 

若月先生は、佐久地域の医療を牽引する病院の院長として、農村医療を重点に一つ一つの課題解決に心血を注いでこられた。私などが言うべきことではないが、高い使命感をもって、なさねばならないと考えたことに全身全霊を傾けて対峙してこられた日々は、分刻みのハードスケジュールであったといえども、多忙感ではなく、大きな充実感を伴うそれであったはずである。よく言われることだが、「忙しい」とは、「心」を「亡くす」状態を表す。「多用」はいいが「多忙」は望ましい心の状態ではない。

 

 

「凡人は、ゆとりがないから充実できないと言うが、本当は充実した生活を送っていないからゆとりが生まれないのではないだろうか。」・・・清水校長先生のおまとめであった。