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Vol.88「浮いた!」

【 コラム 】 2024.08.07

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和6年8月7日

 

NO.88 「浮いた!」

 

本号の発信日は8月7日。佐久地方(範囲は不詳)ではその昔、この8月7日に子どもたちの多くが、自家製の炭酸饅頭を持って川へ水浴びに行った。毎年恒例で、昭和30年代後半まで続いたかと思う。我が家から歩いて3分ほどの湯川(千曲川に流れ込む支流)は、この日大勢の子どもたちで賑わった。当時その川べりには小規模な「砂浜」のような場所もあり、水から出て砂遊びもできた。因みに、この時分私が通う小学校にはもちろんプールなどなかった。

 

本号では、水中に潜ることはできても水に浮いて泳ぐことができなかった私が、何とかまともに泳げるようになった事例を紹介しながら、できないことができるようになる学びの後押しについて考えてみたい。

 

〇 水泳の授業が川からプールへ

プールがなくても、体育の時間に水泳の授業はあった。川で、である。学校から冒頭紹介した湯川までは1kmちょっとなので、徒歩で往復して自然の中で最高に楽しい体育の時間を過ごした。

自然の川に出かけての体育の授業では、他学年の上級生とも一緒になることが多くあった。高学年は結構深いところで泳ぎ、私たち低学年は浅いところで足をつきながら泳ぐ真似をするようなレベルだったかと思う。川の流れに沿って20mほどの一定区間を「移動」するメニューもあったが、まだ泳げる友達は多くはなかった。歩いて移動する友もいる中、私は川底に腹をつけるくらいに潜って移動することができた。上級生に教わりながら、「さなげ獲り」といって石の下に手を入れて魚を獲るような体験もしていたので、先に述べた8月7日の水浴びもそうだが、足のつくところで水に潜ることは容易にできたのだ。正直言うと、水に浮いて泳げるようになりたかったが、潜ることはできても浮きはしなかった。

 

私が小3の頃だったと思うが、プールができて川での水泳学習に終止符が打たれた。時の子ども心では、新しい学習環境の整備に感謝しながらも、魅力満載の川とお別れする寂しさが無くはなかった。

また、実はけっこうオールラウンドのスポーツマンで鳴らしていた我が少年時代であったので、水に浮いた泳ぎができない自分をプールでさらけ出したくはないという変なプライドもはたらいて、プールでの水泳の時間が好きになれなかった。そこで、自由な泳法で泳ぐことが多かったこともあって、先生に潜水でどこまでいけるかを挑戦したいとお願いし、よく認めていただいた。足の指を負傷して校内の水泳大会で見学者だったときは、内心ラッキーだと思った。

 

〇 修学旅行で新潟の鯨波に

海なし県の本県では、当時小学校の修学旅行で日本海を訪れる学校が多くあった。私の小学校では鯨波海水浴場に行った。

 

それまで、海を見たことはあったが、海水浴をしたのは小学校の修学旅行が初めてであった。透き通るような海で腰までつかって海中を覗いていた時のこと、近くにいた友達が叫び声を上げた。

「先生、何か光るものがある!」

「おっ、サザエじゃないかな。・・・晴樹君(私のこと)に潜って獲ってもらおう。」と先生。潜りが得意だった私に、周りにいたみんなの期待が集まった。海の中は未知の世界で、得体のしれないものを手にする不安もあったが、頑張って潜ることにした。

ちょっと勝手が違うぞ、と感じたのはこの時であった。川と違って潜りにくいのである。しかし半分潜って手を伸ばし何とかサザエはゲットした。皆から歓声が上がった。

 

さてその直後、浮いてみようと試みたところ、何とふわっと浮くではないか。その浮く感覚を全身で味わいながら平泳ぎができたこのときのことは今も鮮明に覚えている。そんな私をそっと見ておられた先生から一言。

「海で浮いたこの感覚は、プールでも通用するからね。」

 

〇 わかる・できるようになるために

サザエは先生に上げた。潜って獲る役目を私にやらせてくれた先生は、水に浮くことができず挑戦に背を向けていた少年の変なプライドまで察してくださっていた。そして、何とかしてやりたい、何とかなるかもしれないという想いで私を指名されたのだと思う。こうしろ、ああしろという指導ではなく、浮く感覚を自らつかむための支援をしてくださったのである。

その後、先生の言われた通り確かにプールでも浮いて泳ぐことができ、できないことに蓋をしていた自分とおさらばした。

 

この時の先生のありようは、その後教師の道を歩んだ私の大事な拠りどころのひとつになった。今も、子どもたちに接する機会をいただいた際には、わからないこと、できないことにぶつかっている子どもの心情に寄り添って、子ども自らが問題を解決していくのを後押しできるような支援をと努めている。