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Vol.67「察する心の育ち」

【 コラム 】 2023.10.18

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和5年10月18日

 

NO.67 「察する心の育ち」

 

「物に込められた人々の想いは目に見えない。しかし人間は、そこを察することができる。」・・・前号結びの一文である。ここで用いた「察する」という言葉を、学研『現代新国語辞典』で引くと、「状況・雰囲気などから、事情をそれと知る。推し測って知る。思いやる。」とある。

この察するという心のはたらきが、「社会的動物である人間」、「他者とともに生きる人間」においていかに重要であるかは言うまでもない。

 

本号では、恥ずかしながらまた私の失敗談に絡む話になるが、その失敗に寄り添って私を支えてくれた孫の姿を紹介したい。そこに確かな「察する心の育ち」をみた。

 

〇 ピーマンを刻むはずが・・・

先日、恥ずかしながら左手薬指の腹の一部を削いでしまった。今回は、自分で朝食用にピーマンを刻んでいた際のハプニングであった。少し脱線になるが、状況説明をしておこう。私はパン食以外の朝食では、納豆を欠かさない。そして、夏から秋にかけて自家用野菜が採れる時期は、そこに生ピーマンを刻む。本邦初公開だが、納豆の刻みピーマン和えはシャキシャキした食感もよく、風味も爽やかで実にうまい。お試しあれ。

そのピーマンの刻み方には独自のこだわりがあって、家内にもそれを伝授したのだが、この日は、家内が所用で早朝から出かけていたので、当然自分で包丁を執った。順調に刻み進んで、もう少しで切り終わるところだった。ピーマンのとんがった末端部がまな板の上でこけて、そこを保持していた指が犠牲になってしまった。厚いガーゼと圧力包帯で応急処置をしたが、ガーゼはすぐに真っ赤になり、3度ほど交換した。朝食は抜きだ。

 

〇 診察室まで付き添ってくれた小1の孫

ところでこの日は、夏休み中の小1の孫を預かることになっていた。朝7時半、母親に送られて我が家に到着した彼女が目にしたのは、包帯を巻いて手を上げている私であった。母親は預けるのを遠慮したが、大したことはないから大丈夫だと押し切った。ただし、病院に一緒に連れて行かざるを得ないので、そこは了解してもらった。

 

急患で対応してはくれたものの、予約の患者が多く結構長い待ち時間であった。

「大丈夫? 痛い? ばあちゃんに連絡した方がいいんじゃない?」と、しきりに気遣ってくれる孫。

私が、「ばあちゃんが心配してとんで来ようとするから、連絡は止めておくよ。」と答えると、「うん、わかった。慌てて運転してくると危ないからね。」と私の考えを支持してくれた。

そして、ずっと手を高く保持している私を心配し、「手術するの? 入院になるの?」と訊いてきた。「こんな怪我で手術することはないよ。」と答えながら、そこまで心配させてしまっていることを申し訳なく思った。

 

やっと診察室へのコールがあった。かなり出血もしているし、傷口の処置を目の当たりにさせたくなかったので、待合の椅子で待っているように促したが、「いいから一緒について行ってあげる。じいちゃん可哀そうだから。」とのこと。結局それに甘えることになってしまった。

処置してくださったドクターも看護師さんも、小1の孫の立派な「付き添い」振りに感心し、傷の治療に関する話はそこそこに、たっぷりと孫を褒めてくださった。正直、私はこの小さな「保護者」の付き添いが心強かった。

 

「人の痛みがわかる人間に」とは、よく聞くし、よく口にするフレーズだが、自分が負傷したわけではないのに「痛み」を察し、私のために一生懸命尽くす孫の姿は、下手な痛み止めの薬よりずっと効果があった。