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Vol.64「便利さの中に潜む危うさ」

【 コラム 】 2023.09.06

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和5年 9月 6日

 

NO.64 「便利さの中に潜む危うさ」

 

去る8月29日の昼、NHK総合テレビの「いいいじゅー」という番組で、茨城県石岡市八郷の里山を舞台にした宿泊型自然体験教室「八郷留学」の取り組みが紹介された。ご覧になった方もおられると思うが、同留学を主宰されている原部氏の考え方には、子育て中の親御さんも、学校教育の現場を預かる先生方も改めて吸収するものが多くあろうかと思う。

 

氏が語られた、都会を離れて自然豊かな田舎で体験学習をすることの意義を、できるだけ氏の言葉を用いながら次に要約してみた。(文責楜澤)

 

「今の時代、都会での暮らしは、安心、安全、便利、快適で、誰かが作ったものを享受して生活するのが当たり前になっている。それに比べると、田舎では不便なことが多く、その不便さをどうにかして乗り越えないとやりたいことが実現できない。誰かがしてくれるのではなく、自分で何とかしなければならないのだ。一例だが、スイッチを入れればご飯が炊ける生活から離れ、自分で薪に火を点けて窯炊きをするという生活を体験する。そこに主体的に生きていることの実感が生まれる。子どもたちが、田舎での生活が楽しかったと言えるのはそこなのだと思う。

この教室では、『暮らしも遊びも物語もつくるのは全部君だ』を大きなコンセプトにして、目標を決める力や、発想力、協調性、自己肯定感など、数値化するのが難しい非認知能力を育むことを大事に考えている。」

 

いかがだろうか。実は学校教育の現場でも、この非認知能力は重視している。新しい学習指導要領で求めている資質・能力の3本柱のうちの、「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力等」は数値で測りやすい認知能力だが、「学びに向かう力・人間性等」はこの非認知能力に当たる。

 

たまたま視聴した番組であったが、自然豊かで「不便な田舎」のもつ教育力というものに注目しながら、私はそこに、ある先達の言葉を重ねていた。

 

〇 「何不自由なく育てる」ことのないように(清川輝基氏の講演より)

それは平成10年、もう25年ほど前になるが、長野県教育委員会主催の教頭研修で拝聴した清川輝基氏の講演「人間になれない子どもたち」で心に刻ませていただいた。当時、清川氏はNHK長野放送局の局長であられた。

 

氏は、「1960年台後半から、世の中は快適さ、便利さ、安全性の追求が本格的になったと言える。その結果、結論から言うと『人間になれない子どもたち』が出現してしまった。」とし、その例を3点挙げて話を続けられた。

1点目は体温調整能力。氏によると、人間が熱を発散する機能は4~5才で獲得され、気候風土に合った汗腺がその数も含めて発達するのだそうだ。しかし、エアコン等による「快適な」生活により、体温調節機能が衰退してきている事実も認められるとのこと。もちろん今年のような猛暑下での話ではない。

 

2点目は歩行能力。これにはつまずいたとき手をつくといった能力も含まれる。道路が整備されることは、すでに「人間になった者」にとっては快適で便利だが、これから人間としての機能や能力を獲得していこうとする者にとっては発達の障害になることさえあるという。歩き始めの赤ん坊が、靴下を脱いでしまうのは当たり前のことなのだそうだ。

 

3点目が人格の発達。「キレル」子どもの脳のはたらきは、体を使い、人とぶつかりながら発達してきた脳からは生じないとのことであった。反対に、現実ではなく、つくられた光や音によるバーチャルリアリティ(仮想現実)で外界を認識しとらえる体験が積み重なると、健全な脳の発達を阻害する危険性が大になると語気を強められた。

 

そして、こうした現代にあってこれから大切にしたいこととして話されたことの筆頭が「何不自由なく育てることのないように」であった。本来子どもの文化は、心や体にけがをしながら、また「必要な不自由」を感じながら形成されていくものだと説かれ、内的な抑制力が育っていない者が、外的な抑制がはずれたときどうなるかは容易に想像できるでしょうと結ばれた。

 

〇 ますます便利な世の中になっていくときだから

悪者扱いするつもりはないが、便利さの追求というのは言うまでもなく留まることを知らない。人間の仕事を代わってやってくれるロボットもどんどん増えている。しかし、そういう時だからこそ、「不便さのもつ教育力」や「必要な不自由」について、特に子どもの人格形成に直接・間接に関わる大人は改めて考えてみることが重要である。

 

文明の利器にみる光と影の、影の部分を放置してはならない。昨今「生成AI」について、その陰の部分もよく話題になっているが、それは健全なありようである。熟考を続ける社会でなくてはならない。私自身は、「人間が『活用』する利器」という一線を越えることがないよう強く願っている。