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Vol.58「役に立つか立たないかだけでなく」

【 コラム 】 2023.06.14

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和5年 6月 14日

 

NO.58 「役に立つか立たないかだけでなく」

 

 中学校での教職経験が長かった筆者は、よく生徒たちの「この勉強は一体何の役に立つのだろうか」といった疑問に出逢うことがあった。お察しのことと思うが、それらは大抵「何かの役に立つとは思えない」という否定的な想いを伴って発せられた問いであった。特に調査したわけではないが、既に義務教育を終えられている皆さんの中にも、現役時代にこうした疑問を抱いたことがあるという方は少なくないのではないかと思われる。

 

本号では、「役に立つとは思えない」という切実な想いに寄り添いながらも、それを超える学びの意義に迫ってみたい。

 

〇 生活や将来の仕事に直接役立つかどうかという視点

20年ほど前になるだろうか、テレビのある番組で全国各地の中学生、高校生と教師が集まって学習の必要性に関わる公開討論が行われた。視聴者にもFAXで意見を述べる機会が与えられたが、あいにく回線が混み合っていて私の意見は送信できずに終わってしまった。この討論のある場面で、生徒と教師の間でおもしろい意見のやりとりがあった。

 

多くの中学生(少なくともこれに反論する中学生はいなかった)が、こんな主張をした。

「例えば数学の因数分解などは、日常生活の中で使うことはないから勉強する必要がないと思う。」

これに対して、参加していた教師たちが悪戦苦闘を強いられる。次のような論が主であった。

「今の生活で必要なくても、将来因数分解が必要な職業に就くかもしれないし、数学の研究者になるかもしれない。やはりそういういろいろな可能性を考えて勉強する必要がある。」

これに対する反論が、中学生を中心に沸点を超えた。そして、失礼ながらそれにたじろぐ教師たちの姿も・・・。少々嘆かわしく思った。

 

さて、読者諸氏はいかがお考えだろうか。因数分解の学習不要論も必要論もあろうかと思うが、必要論に立つ方は、先のような中学生に自分だったらいかなる意見を述べるか、ぜひ試みられたい。

 

〇 役に立つかどうかという意識を超えた学び

ところで、必要感をもった学習というのは大事なことである。理科屋さんの私は、授業の導入場面で、子どもの探究心に火をつけるような事象提示に心がけてきた。それに対峙した子どもたちが、抱いた疑問や見出した問題を解決しないではいられなくなる、そんな学習展開を追い求めていたからである。

問題解決の主人公は子ども一人一人だ。そして、問題を解決しないではいられなくなる理由は、生活に役立つからとか将来それに関連する仕事に就くからとかという言わば「成果」直結型ではないことの方が多かった。

学ぶ必要感というのが、生活や仕事に役立つということから生まれる例ももちろんあるが、そういう「成果」を期待しての学習に終始していては、心豊かな人間の育ちは期待できない。

 

将来因数分解を使って問題解決するような生活や仕事をする可能性もあるからということではなく、因数分解を学ぶ意義は十分にある。数式を積の形にすることで、それまでみえなかったことがみえるようになったり、ドラマティックに新たな問題を解決する手段になることがわかったりする学びは、数学のもつ一種の美しさの感得にも通じるものである。こうした学びは、人格の完成を目指して行われる教育において、その人格というものを領域別にみたときの認識的領域だけでなく、感情的領域の耕しにもなる。

 

教室での学習を日常生活と関連付け、子どもにとってより身近で切実な問題意識を出発点として授業づくりをしようとする努力や工夫は、特に義務教育の現場ではずっと大事にしてきている。それは、何かの役に立つかどうかといった価値基準を超えたところで、子どもたちの主体的な学びを支え育む営みである。

少なくとも子どもたちの人格形成に直接、間接に関わる私たちは、ものの見方や考え方を鍛える学び、総合的に人格の多領域に及ぶ学びが意図的・計画的に営まれてきている教育の意義を見失わないようにしたい。