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Vol.42「高名の木登り」

【 コラム 】 2023.01.18

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和5年 1月 18日

 

NO.42 「高名の木登り」

 

今回は恥ずかしながら私の最近の失敗談を2つ紹介する。失敗は成功のもとというが、私の失敗談が少しでも皆様のお役に立つことがあれば幸甚である。昨年、そして年が明けたつい先日の話になる。

 

〇 一瞬にして!

 

それは、昨年3月24日、私が毎月お世話になっている美容院での出来事であった。同美容院を経営されている青年美容師Kさんはものすごく懇切丁寧な仕事をされる方で、評判もいい。この日も、少なくなった私の頭髪を1時間以上もかけてカットし整えてくださった。

 

ところでそのKさんは、美容師の技能に優れていることは無論、客の趣味や関心事に合わせた対応もこの上なく丁寧で、私は毎回心地よい時間を過ごさせてもらっている。この日、カットを終えて支払いも済ませた私は、礼を言いながら出入口のドアを開けた。Kさんはいつものように店内から見送ってくださった。この日の話題はゴルフだったことから、「ゴルフ頑張ってくださいね。」とKさん。私は3分の2ほど開けたドアのノブに手をかけたまま斜め後方(店内方向)に視線をやり、歩を進めながらその声掛けにも応えようとした。

 

 

突然地面がなくなって谷底に落ちるような感覚を覚えたのは、その時であった。2歩目を踏み出していたがその足が空を切った。自分の中ではまだ玄関を出たフラットな面を歩くつもりで踏み出した一歩だった。駐車場のコンクリート面までわずか2段の外階段であったが、その1段目で空足(からあし)を踏んで大転倒してしまったのだ。たった2段、高さにして約40cmだ。簡単に飛び降りることもできる高さだったが、踏むはずの地面を失ってしまったことで尋常な転び方ではなかった。80㎏の体重を真っ先に支えたのは右手親指と右膝であった。

 

右手親指は、第一関節で45度位外を向いてしまっていたので、もはや並のケガではないなと思った。検査の結果、膝の骨折はなかったが、親指は残念ながら重度の粉砕骨折で要手術となってしまった。

 

 

高度医療センターで年間数例しかないという手術を受けた。親指の骨の中に4本のボルトを入れ、更に粉砕した骨片を望ましい位置に固定するためのワイヤーを2本入れる手術だった。通院を終了したのが昨年12月5日だったので、リハビリも含め何と8ケ月以上に及ぶ治療となった。

 

 

一瞬にして人生が変わってしまう大失敗であった。高所恐怖症でもあるので、高さが2m程度ある階段ならばもっと注意を払っただろうが、全くの不注意が招いた自損事故だった。

 

 

〇 写経にて

 

これは、新年になったつい最近のこと。以前にも紹介した私の書道の師、池田龍仙先生の作品集を鑑賞していて、先生の作品をお手本にして写経に初挑戦してみようと思った。

 

次の写真は、私の写経挑戦1作目(未完成)である。あと数行で完成するところだったが、ここまできて文字を間違えてしまった。写真最後の文字に注目されたい。「苦」と書くべきところを「菩」と勘違いし、途中まで書いてしまった。写経における文字修正の仕方もあるようだが、これを修正するのはやめて後日最初から書き直そうと思う。

 

 

 

 

262文字の仏典「般若心経」が、あと39文字で完成するところだった。なお、ここまで書くのに5時間弱かかっている。なぜかというと、経文の中には初めて書く文字、特殊な文字が少なくなく、その都度字体辞典等に当たってから書くことになるので(お手本に重ねてなぞり書きする写経でない場合)初心者はかなりの時間を要することになるのだ。

 

時間をかけただけに、この失敗は本当に悔やまれた。しかしながら、いい教訓としてこのままとっておこうと思う。「後もう少し」、その辺に落とし穴がありそうだ。

 

 

〇 「高名の木登り」(徒然草)

 

以上2つの失敗談を披露したが、そのいずれも自分が高校時代に学んだ「徒然草」の「高名の木登り」の戒めを想起させる。以下はその原文(文責 楜澤)である。

 

 高名の木登りといひしをのこ、人をおきてて、高き木に登せて梢を切らせしに、いと危く見えしほどはいふ事もなくて、下るる時に軒長ばかりになりて、「過ちすな。心して下りよ」と、言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛びおるるともおりなん。如何にかくいふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき、枝危うきほどは、己れが恐れ侍れば申さず。あやまちは、やすき所になりて、必ず仕る事に候ふ」といふ。

 あやしき下臈なれども、聖人の戒めにかなへり。鞠も難き所を蹴出だしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。

 

 

700年近く前にまとめられた「徒然草」だが、その教訓とするところは色あせることなく今日に通じる。年頭に当たり、私の場合は特に心しなくてはならないと噛みしめている。