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Vol.38「書道と私」

【 コラム 】 2022.12.14

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和4年 12月 14日

 

NO.38 「書道と私」

 

我が妹が嫁いだ家の義父は、地域でも名の通った書家であった。96歳で他界する直前まで、毎日書の研鑽を積まれていた。そのおじいさんの下(もと)には近所の皆さんが集って定期的に書の勉強をされており、そこに妹も参加していた。ところが昨年、そのおじいさんが亡くなられて書道の指導者がいなくなってしまったのである。

 

浅学の私に、妹から指導の依頼があったのはその後間もないことであった。書の勉強をぜひ続けたいという皆さんの熱意に応えさせていただくことになった。何しろ、60代から90代の、そんなにお若くはない皆さんが、課題を猛練習して臨まれるのだから。私も、毎回貴重な勉強をさせてもらっている。感謝だ。

 

さて、理科教師になっていった私が書道を愛するようになった歩みを振り返ると、3つの特筆すべき背景が挙げられる。本号ではそれを紹介しようと思うが、まずは、在りし日の母の存在が大きかった。

 

 

〇 得意げに乱雑な文字を書いていた少年が・・・

 

私は小学校3、4年生くらいまで、字がとても雑であった。変な言い方だが、書ければよいと考えていたので、得意げに乱雑な文字を書いていた。早く書けることには意義を見出していたと思うが、丁寧に書こうとか、美しく書こうといった発想は全くと言っていいくらいなかった。そんな私を変えるきっかけとなったのは、書道のコンクールであったが、そのことに関連して、(母)親の在り方を論じた寄稿文がある。古い話になるが、昭和40年発行の文集「くさぶえ」(北佐久PTA母親文庫)に載ったものだ。次に紹介させていただく。

 

 

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「駄目のレッテル」                               楜澤 延子

 

 

這えば立て、立てば歩めの親心で育てる頃からみれば一段と成長して、自分のことは自分でという習慣もどうにか・・・。ホッと一息つく暇もなく成長した子どもたちは、またそれなりの勉強やいろいろな方面から、なかなか難しい年頃となりました。

 

この頃の子どもをもつ母親として、勉強したくなる楽しい雰囲気をつくるべく、時代にマッチした勉強にと心を痛めることもございます。時折本屋さんの看板をくぐって、昔懐かしい自習書を手にすることもしばしば。時には解し難き算数に困ることも。そんな時、ただただ忙しい家事に追いまわされて年毎に理数的概念の鈍くなってきた自分に気が付き、情けない焦りを感じております。世のお母さま方の共通する悩みではないでしょうか。

 

生活については常に満足せよ。自分自身については満足するな。・・・こんなことを自分に言い聞かせる昨今ですが、ある日、5年生の子どもが「お母さんただいま。僕の書道、入選したよ。」と、いつになく弾んだ声で帰宅しました。

 

日頃から、学校でも家でも駄目というレッテルをはりつけられて、自分でも劣等感を持っていたらしく、時々、他の学習はよくても「図画とか書道は特殊だからな、・・・」と言っておりましたので、この時の明るい笑顔は忘れられません。私を喜ばせようと走り帰ったようです。

 

それからは、時には見られないような作品でもほめるところを見つけて自信をつけるようにしてやりました。

 

「千里の道も一歩から」とか、「人ができることは必ずできる」を大事にしました。家は字が下手な系統だからなどというレッテルをはる前に、好きになれる雰囲気をつくってやることができたら、もっと素直に伸びられるものをと、つくづく感じました。この頃では、ちょっとの暇に図画なども描いて楽しめるようになってきました。

 

何事も、駄目というレッテルで伸びようとする素直な若芽を摘み取らないよう広い気持ちで見守っていきたいものだと、母親の責務の重大さを感じております。

 

以上、ある日の日記より拾って書いてみました。

 

 

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コンクール入賞を契機に、「駄目のレッテル」をはらない、剥ぐという母の愛情が美しく文字を書くことも大事にする少年へと変容させてくれたように思う。

 

 

〇 亡き父に代わって

 

次に特筆すべき背景は、小3で父を亡くしたことである。小学校高学年あたりから、長男として父の代役を務めることも少なくなかった。葬儀があると、帳場で筆を持って小学生が重要な香典記録をまとめることもあった。親戚の長老は、「筆が立つ」と褒めてくださったが、本当は、失礼ながら筆を持ちたくなかった故の世辞かもしれない。

 

環境が人を育てる、とは教育の通念であるが、父の死を乗り越えてその代役を務めることになったことも成長のための見逃せない環境のひとつだったのかもしれない。少なくとも、筆は持たざるを得なかった。

 

 

〇 師に恵まれて

 

3つ目の背景は、私を書道の勉強に導いてくださった師の存在である。とりわけ、高校時代の選択書道の恩師だ。金子牧水先生と池田龍仙先生である。龍仙先生には教員、特に校長になってからも折に触れてご指導いただいた。先生を知る、書をたしなむ皆さんからは、「龍仙先生から直に指導いただけるなんて」と、うらやましがられた。内閣総理大臣賞を2度も受賞された先生である。

 

「楜澤君、僕が空いているときはいつでもみるよ」とおっしゃって、作品作りや大事な揮毫をする際にはたっぷりと指導してくださった。雅号の「聖樹」も龍仙先生からいただいたものである。

 

そんなすばらしい先生も4年ほど前、享年81歳にて他界されてしまった。教育長在任中、「パソコンで文字をプリントアウトできる時代だからこそ、子どもたちが筆を持つ機会を多くしたいですね。」という先生の強い願いを伺った。先生からいただいた宝物の硯を使う度に、書家であり教育者であられた先生のその言葉を噛みしめている。