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Vol.27「『明日』を考えることの意味」

【 コラム 】 2022.09.28

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和4年 9月 28日

 

NO.27 「『明日』を考えることの意味」

 

前号で、「図形博士」のエピソードを紹介したが、本号のテーマへの導入として、前号にあった次の記述を再掲させていただく。文中のアンダーラインは今回付したもの。

 

 

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数学の時間、いや図形の授業が楽しみであることなど、それまでの彼なら口にするはずもなかったが、何と次の時間の予定を尋ねるなど、素直に自己表現する姿が出てきた。彼の羽目の外し方も少しずつ変容し、担任の私もクラスのみんなも、彼について「再発見」を重ねていく。

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これは、私が担任していた「リーゼント君」(前号参照のこと)についての記述。どちらかというと「今が楽しければよい」という刹那的な生き方が垣間見える少年であったことも想起してほしい。その彼が、「図形博士」の異名をとるようになり、徐々に変容していくのである。

 

 

  • 「先生、明日の数学何やるだ?」

その変容ぶりの代表例として示したのが、アンダーラインを付した部分だ。数学係でもない彼が、「明日の数学は何やるだ?」と聞いてきたときには失礼ながら驚いた。びっくり仰天に近かった。明日のことなんかどうでもよいとしていた少年だったからだ。

彼はいい子に見られそうな言動を嫌い、やや屈折した反応をすることが多かったので、この時も、少しきまり悪そうなそぶりを見せながら「何やるだ?」と発してきた。これは、再掲の文中にもあるように、その素直な自己表現ができたことにおいてまず注目すべき出来事であったが、加えて、彼が尋ねたのは、「明日」の数学なのである。画期的であった。

 

 

私は多く、中学校で教鞭をとってきたが、この、「明日(将来)のことを考えて行動する(生きる)」ことができるかどうかが、子どもが健全に育っているかどうかの重要かつ代表的なバロメーターになると考えてきた。今もそれは間違っていないと思っている。

 

 

  • 非行に走る子どもたちのひとつの共通項

当時、昭和50年代の終わりは、特に中学生の非行問題が多く発生し、私も多くの事案に対峙した。本来の生徒指導というのは、生徒のやる気を引き出して生徒を前向きにさせていくものなのだが、次から次へと起こってしまう問題の事後処理に追われることも結構あった。少し具体的な話を添えるならば、本県でも、中学校の卒業式にパトカーが待機したり、地域の無職少年たちの配下になった中学生が恐喝を繰り返して補導されたりといった事案まであった。

その、非行に走る子どもたちにはさまざまな背景があったが、表面に現れる傾向のひとつとして共通して言えることがあった。それが、「明日」のことはあまり考えないということである。24時間以内にやってくる明日だけでなく、卒業後、将来のことも含めた「明日」だ。彼らは、基本的に今が楽しければよくて、明日に備えてとか、卒業後のために今なすべきことを、という発想にはなかなかならなかった。(もっとも、内心深いところは敢えて見せなかったと考えるのが教育的なのかもしれない。)

 

 

  • 「明日」を考えることの意味

さて、図形博士の異名をとった少年は、何と、次の数学の内容を私に尋ねるようになったのだから、やはり「びっくり仰天」であった。誰も解ける気配のなかった図形の問題を解決する補助線を発見したことは、彼の人生におけるただごとならぬ快挙だったに違いない。

彼から初めて授業予定を尋ねられた私は、驚きながらも「おっ、『明日』のことを考えるようになってきたぞ。」と希望の光を見た。

 

 

私が校長退職後お世話になった佐久市教育委員会では、学校教育が目指す子ども像として、「夢や希望をもって輝き、ともに生きる子ども」を掲げているが、この、「夢や希望をもつ」ことは、「明日」の自分のことを考えることに他ならない。

今の自分から自分の将来像を描くと、場合によっては「○○にしかなれないかな」という発想が生まれる。しかし、将来なりたい自分から今の自分のあり方を考えていけば、「○○になるには□□の力をもっと付けよう」といった発想になる。

 

明日(将来)のことを考えて生きることは、「今楽しければいい」という割り切った過ごし方と比べれば、困苦に向き合うことも多くなる。しかし、将来のために今なすべきことを考えてそれに向かう人間のありようは、人としての輝きを本物にする。

 

昨今、上述したような派手な非行問題にはあまりお目にかからなくなってきた。「最近の中学校は落ち着いている」との評価もよく聞く。しかしながら、中学生に限らず、「『明日』のことをあまり考えない」という点で共通する大変気になる問題もある。それは、ゲーム依存症などとして医学界でも警鐘を鳴らされている問題で、子どもたちの中には非現実的映像等に長時間接触し、もはやその接触を自力ではコントロールできない状態に陥っているケースも少なくない。当然、今なすべきことに向かえないばかりか、専門家からは、「人間として生きるために必要な力が育たない」とも言われている。

 

「明日」というのは、人間がよりよく生きるために欠かせない要素なのだと思う。