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Vol.26「子ども再発見」 ~中学校編~
【 コラム 】 2022.09.21
学びの応援コラム
楜 澤 晴 樹
令和4年 9月 21日
NO.26 「子ども再発見」 ~中学校編~ |
前号では、小学生の2つのエピソードをもとに、「子ども再発見」の喜びをお伝えした。それは、子どもの人格形成に関わる人間として、一旦とらえた子ども像を進化させてくれる言動に出遭うことができた喜びである。
こうした、自己更新している子どもの事実は、私たち大人だけでなく、学級集団や学習集団を形成している子どもたち一人一人においても注目し合えることが肝心で、私自身教師として歩んでくる中でそういう集団づくりに心がけてきた。友の良さに学ぶ空気のある集団は、誰にとっても居心地が良い。人間誰しも失敗をするものだが、「ダメのレッテル」を貼ることも、さらには貼りっぱなしにすることもよくない。友の「とらえ」を更新し、友の良きところを共有しようとする集団は、一人一人の向上心を伸ばす力をもつ。
さて、本号は、「子ども再発見」~中学校編~である。例によって2つのエピソードを紹介させていただく。
- 「図形博士」誕生
今は昔、昭和50年代の後半のことである。私が学級担任をするクラスにも、金色で、リーゼントの髪型を決め、短ランをかっこよく着こなして、白いエナメルの革靴で闊歩する少年がいた。どちらかというと、「今が楽しければよい」という刹那的な生き方が垣間見え、時として担任を手こずらせることもあったが、その独特な主張に教師のあるべき姿を考えさせられることもあった。
当時私は理科の授業より数学の授業を多く受け持っていたが、そんなある日の数学の時間、図形の問題を解く場面であった。普段数学を得意としている生徒たちも頭を抱え込んで、かなりの時間が経過していた。その時、一人の少年が「できた!」と叫び声を上げてクラスの沈黙を破った。図形の問題では、解決の決め手となる補助線を引けるかどうかが重要になることが多い。その補助線がひらめいて叫んだ少年こそ、愛する「リーゼント君」であった。
彼は自宅のバイクのエンジンまで分解したり組み立てたりする腕をもっていたので、形のもつ構造性に対する目の付け所が違っていた。この時ばかりはその直観力が大ヒットし、問題の解明に大貢献した。級友から「すごい!」と称賛された彼は、尊敬のまなざしまで浴びるようになり、やがて図形博士の異名をとった。数学の時間、いや図形の授業が楽しみであることなど、それまでの彼なら口にするはずもなかったが、何と次の時間の予定を尋ねるなど、素直に自己表現する姿が出てきた。彼の羽目の外し方も少しずつ変容し、担任の私もクラスのみんなも、彼について「再発見」を重ねていく。
卒業の日、彼は大粒の涙を流しながら感謝の言葉を残して思い出多き中学校を去った。
一朝一夕にはいかないが、学ぶ意欲を引き出す指導や、互いのよさを認め合う集団のありようが、失いかけていた少年の自尊心を回復させる後押しになったのではと振り返っている。
- 「校長先生、ただ今はすみませんでした。」
私が初めて校長として着任したある中学校でのこと。着任後間もない4月中旬のできごとであった。恥ずかしながら、私は水曜日の朝の生徒玄関解錠の時刻が7時半で、他の曜日より遅くなっていることを失念していた。それは、4月1日の新年度職員会で説明されていたことであった。
さて、ある水曜日の朝、7時10分頃だったと思うが、生徒玄関の外で解錠を待つ2人の男子生徒に遭遇した。
「まだ開いていないんだね。今開けるからどうぞ。」と言って中から解錠してやった。2人は、少しもじもじしながら「すみません。」と言って玄関に入った。ところが、私が靴を履き替えて職員室の方に向かおうとしたその時、2人は慌てて私のところに駆け寄ってきた。
「校長先生、ただ今はすみませんでした。実はノー部活デーの水曜日は30分にならないと入れないことになっているんです。もう少しで、お見えになったばかりの校長先生をだましてしまうところでした。もう一度外に出ますから、すみませんが中から施錠してください。」
ノー部活デーの解錠時刻を失念していた自分は校長として失格だなと恥ずかしい思いに襲われたが、それより何より、2人の生徒のこの行為にものすごく感動した。そしてこういう質実な生き方ができる生徒が育っている事実を、本当に誇らしく思った。
「あっそうか。恥ずかしながらそのルールがあることを忘れていて、かえって君たちに気を遣わせてしまい、すまなかったね。それにしても、相手がわかっていないからといってだましたり自分をごまかしたりしない君たちの生き方には、深く感動した。ありがとう。」
こう返すと、2人ともうれしそうに玄関を出た。このうれしい「再発見」は、後日、校長として恥ずかしい対応であったことにも触れながら、校長講話で全校生徒・職員に伝えた。