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Vol.25「子ども再発見」~小学校編~

【 コラム 】 2022.09.14

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和4年 9月 14日

 

NO.25 「子ども再発見」 ~小学校編~

 

前号で、校長時代に、ダンゴムシと戯れる子どもたちからとても大事なことを学んだというエピソードを紹介した。

実は、このダンゴムシの話に限らず、教師としての自分の歩みを振り返ったとき、子どもたちから学んだことが山ほどある。授業においては、毎時間のことだ。そもそも、いい授業というのは、子どもの見方や考え方を大事にしながら、ともに学びを創り出していくものなので、子どもがどういう問題意識をもち、問題解決に向けてどんな見通しをもっているか等々、常に子ども理解に軸足を置かないと成り立たないのである。子どもの現実が、教師の予想やとらえとずれたまま展開される授業は、「教え込み」に終わることが多い。この、子どものとらえというのは、授業を構想する時点はもちろんのこと、授業展開の様々な場面で更新する必要があるので、そこに難しさと、そして難しさが故の醍醐味がある。

というわけで、本号では「子ども再発見」~小学校編~として、私が授業や校長講話を通して「再発見」に至った子どもの注目すべき見方や考え方について、紙面の都合で2つだけ事例を紹介したいと思う。

                                                                   

 

○ 「この地層は滝のところでできたんじゃない?」

 

見出しの言葉は、私がリオ・デ・ジャネイロ日本人学校で、小学生の理科の授業(6年生のみ担当)をもたせていただいた折、この写真にあるような斜めの地層のでき方について、私の問いに子どもたちがひねり出した解答である。

同校には小学部と中学部があり、私は中学部の担任で、教科は理科と技術を教えていたが、一時期特別に6年生の理科も担当することになった。初の体験で、中学生とはまた違ったおもしろさを味わわせてもらった。

 

 

さて、その彼らは小5の「流水のはたらき」という単元で、流れる水が土地を浸食し、石や土などを運搬したり、また堆積させたりする働きもあることを学んでいる。水の流れがゆるやかになったところで堆積させる作用が増し、その結果水平に広がる縞状の地層ができるということについてもモデル実験を通しておおむね理解している。小6では、土地は礫(れき)、砂、泥、火山灰及び岩石からできていることや、その土地が地震等によって変化することも学ぶ。ある日の授業で、先に紹介した写真を見せながらこう質問した。

Q「流水が運んできた石や砂などが堆積して水平に広がる地層ができることを勉強したよね。それではこういう斜めの地層はどうやってできたのだろうか?」

 

 

中学校では、水平に堆積してできた地層が何らかの力を受けて傾いたという生徒の考えをもとに、隆起や沈降、断層といった地殻変動に帰結させることになる。ところが、小6の子どもたちの発想はおもしろい。水平面を成す水のもとで堆積すると斜めにはならないので、斜めに落ちる「滝のところ」で堆積するという奇想天外な考えが登場するのだ。「子ども再発見」である。全く想定していなかったこういう独特な見方・考え方の出現によって追究は深まった。モデル実験で証明できるか焚き付けると、子どもたちはあの手この手を講じた。斜めの板にホースで水をかけ板の上部に置いた砂や泥を流す。もちろん流れ落ちてしまう。子どもたちの悪戦苦闘が、斜めの地層ができる成因の解明には至らなかったが、水のはたらきで砂や泥は、およそ水平にしか堆積しないという事実を深く脳みそに刻むことになった。

 

 

  • 「少し遠慮した結果だと思うので、校長先生そんなに心配しないでください。」

小学校長時代、全国学力学習状況調査(小6、中3が対象)の結果を紹介しながら校長講話を行ったことが何度かある。

平成24年度3学期始業式のこと。児童生徒の質問紙調査の結果をもとに、自己有用感について全国的に心配な状況にあるという話をした。関連する質問はいくつかあるが、典型的なものは「自分にはよいところがあると思いますか」という問い。これに対して、「あてはまる」と「どちらかといえばあてはまる」という回答を合わせてみると、小学校では76.8%、中学校では68.4%となった。この結果を、良好とみるか問題視するか、いろいろな見方ができようかと思うが、私は全校児童に「心配な状況にある」と話した。中学校と比べれば少し良い数値になっている小学校においても、100人のうち約23人、つまり4人に1人は自己有用感があまりもてていない現状だからである。やはり、「心配な状況だ」とした。

 

 

そんな心配から、平成25年の書初めは「自分に胸張って」としたとし、拙書を掲げた。そして、もう50年以上になるが毎年書初めは欠かしたことがないことをちょっぴり自慢げに添えながら、こう続けた。「書の出来具合は目に見える。でも出来がどうであれ、1年も欠かさず挑戦を続けてきた事実は、目には見えないことだが、私が自分に胸を張れることのひとつ。」・・・この時、1100名近い子どもたちから大きな拍手をいただいてしまった。

最後に、「3学期は1年間の学習の締めくくり。見えるところでも見えないところでもよいので、自分にはこんな胸を張れることがあると語れる学期にしてほしい。」と結んだ。

 

 

この日の休み時間、ある6年生の女児が校長室を訪ねてくれた。

「校長先生、お話ありがとうございました。自分に胸を張れること考えています。それから4人に1人というのは心配ですが、あの回答は私も、そして多くの人が少し遠慮した結果だと思うので、校長先生そんなに心配しないでください。」

・・・校長の心配を和らげにわざわざ来てくれたのである。何と優しく、そして頼もしいことか。再発見も再発見、うれしくて、うれしくて、涙が出た。