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Vol.20「古いもの・ことに寄せる心」

【 コラム 】 2022.08.09

学びの応援コラム

楜 澤  晴 樹

令和4年 8月 9日

 

NO.20 「古いもの・ことに寄せる心」

 

先日、長野にいる孫たちがサッカーの試合で軽井沢にやってきた。我が家から車で20分ほどのサッカー場で、私も家内も応援に馳せ参じた。軽井沢とはいえ猛暑の中の試合だったので、炎天下何試合も走りまくる少年たちのタフさには驚くばかりだった。残念ながら孫たちのチームは、強敵を相手に善戦したが負けを重ねる結果となってしまった。だが、暑さに負けず頑張って走りまくった孫たちは勝敗を超えて立派だった。

 

どんな言葉をかけて彼らの頑張りを称えようかと思っていたところ、ものすごくうれしい情報が飛び込んできた。5年生の孫が愛用しているサッカーボールのことである。とても古くなっていたので、チームの監督から、「それだけ使えば十分。新しいボールを買ってもらったら?」と声をかけられたそうである。監督の助言を受けて母親も新調を促したようである。

 

ところが、本人は「古くなっちゃったけど、大好きなボールだからまだいいです。」と応答したとのこと。このいい話を聞いたじいちゃん(私)は、うれしくなった。ただし、監督さんが注目するくらい既に限界を超えているようなので、そういう心がもてているからこそ新調してやったらどうかと娘に勧めた。もちろんじいちゃんの費用負担で、である。

 

その日は皆、佐久の我が家に泊まった。早速新しいボールを買ってもらって帰ってきた孫に、私はこんな話をした。

 

「新しいものを欲しがる友達も多い中で、古くなっても愛用してきたボールを大事にしたいという考えをもてる人間に拍手だ。じいちゃんはその話を聞いてものすごくうれしかったよ。ただ、使える限度ってものがあるから新調してやったら、とママに頼んでおいた。」

 

持ち帰った古くなったボールを手に取らせてもらったが、失礼ながら「ボロボロ」で、表面の合成皮革はもはや滑らかな球面を成していなかった。監督から声がかかるのも不思議ではないと思った。

 

本号では、この話に類したエピソードをもうひとつ紹介しようと思う。

 

 

  • 全面改築が決まった古い校舎を磨く子どもたち

 

私が教職の最後にお世話になった佐久市の岩村田小学校は、当時児童数が約1100人、教職員数が70名ほどの大きな学校であった。その過大規模と老朽化という2つの問題を解消するため、佐久平浅間小という「分家」を出しながら旧校舎も全面改築することになった。新校は平成27年度開校で、旧校舎は子どもたちがおよそ半分になるその27年度から改築工事に入った。

 

さて、まだ大所帯の平成25年度末のこと、校長室前の廊下で雑巾がけをしていた4年生の女児に清掃時間終了後声をかけた。古くなってもうじき建て替えられる校舎の廊下を一心不乱に磨く姿に感動したからである。

 

「よく磨いてくれてありがとう。あなたの手には力と心がこもっているね。」と私。

 

その返答に、またまた感動してしまった。

 

「ありがとうございます。校長先生、私は6年生になれば佐久平浅間小学校に行くことになります。でも私はこの校舎が大好きです。古くなっても、いっぱいお世話になったこの校舎と本当はお別れしたくありません・・・。」

 

 

新しい学校と比べたら快適さや便利さなどは話にならない状態の校舎である。その古くなった校舎に感謝しながら、大好きだと言って一生懸命床を磨き上げる子どもの姿は、床とともにピッカピカに輝いていた。新しさ、快適さ、便利さ、・・・そういったものを超越したところに真価を見出しているそのお子さんの事実に心動かされ、涙を禁じ得なかった。

 

 

  • 古いもの・ことを大事にする意味

 

「古」の字源については諸説あるが、講談社の「大字典」によれば、十と口とから成る合字で、十には多数という意があるので、多くの人の口に上ることという意味を有し、それが新しいことではないことからこの文字が誕生したとのことである。

 

新しいものが、古いものの欠点を補って登場する場合や、新しい理論が古いそれに取って代わる場合の「新しさ」は重要であり、抽象的な言い方をすれば世の中はそれで進歩している。しかしながら、まだ使える消しゴムを捨てて新しいそれを使いたがる例のように、欠陥があるわけではないのに新しさだけが求められる傾向はないだろうか。

 

新しいものを求める心を否定するわけではないが、古くなって、仮に若干の不便が生じているものでも、工夫を凝らして使うところに生きる知恵が育まれるように思う。さらに、そうやってものを大事にする心は、「もの」にとどまらない。

 

 

学校現場においても、子ども主体の授業づくりをするために古くから大事にしてきた欠かせない取り組み(例えば十分な教材研究)を適当にしておいて、新しい「how to もの」に走ろうとする動きには何度も警鐘を鳴らしてきた。

 

 

自分にとって意味あるものが「新しさ」だけにとどまらないようにしたいものである。