NEWS

Vol.2  「 子どもは‘Active Learning’の天才」

【 コラム 】 2022.04.14

          学びの応援コラム                                                                                   楜 澤  晴 樹

令和4年 4月 14日

NO.2  「 子どもは‘Active Learning’の天才」

 

 

前回(第1号)、私が教職の道を選択した理由(背景)を紹介する中で、 Active Learning (以後A.L.と略記する)について触れ、受け身の学びでなく、主体的・能動的な学びが大事で、問題解決の主人公になっての学習は人間の輝きを増大させるという話をさせていただいた。A.L.という語は、そもそも大学等の高等教育において、その質を変えていく必要があるとして用いられるようになった。大学教員が行う講義を、学生は専ら受け役に回るという学びを何とかしないといけないということで生まれた考え方であった。

 

さて、本号では2つの事例を紹介しながら、Themeに掲げた子どもの天才ぶりに迫り、私たち大人の望ましい立ち位置に言及してみたい。

 

○ 中秋の名月の夜に

4年ほど前になるだろうか。中秋の名月の夜、私は、当時1歳と8ヶ月になる孫を抱っこして月見をした。

「きれいね」と繰り返し声を上げながらお月さまに向かって大きく手を伸ばし、それをつかもうとしている孫を見ているうちに、「名月を取ってくれろと泣く子かな(一茶)」の情景が重なって、つい新しい味付けに興じてしまった。

まず大きく伸ばした手でお月さまをパッとつかむ仕草をする。さらには、つかんだ手を口までもってきて、こともあろうに「きれいなお月さま」をパクッと食べてしまう真似。すると結構大受けで、上手に私の真似をし始めた。さてさて、品のない食べっぱなしのフィニッシュではいけないと思い、「食べたと思ったらまだちゃんとまん丸お月さまがお空にあって、『はあ、よかった』」という幕引きに努めたのだが、・・・。

 

子どものもののとらえ方や感受性は時として大人の常識を超えるので、大変興味深い。しかし同時に、関わる大人はあまり無責任なことはできないなと自戒した次第。お月様を食べてしまうという一興をすぐに自分事にしてしまう能力はすごい! 子どもは、そもそも受け身ではなくA.L.を行う天才なのだと思う。

そういえば我が子も3歳のときだったか、車窓から見えるお月さまが、車の移動によって違った方角に見えたとき、「こっちにもお月さまがあるね!」と目を輝かせながら発見の叫び声を上げたことがあった。

 

○ 「たんぽぽのちえ」

それは私が小学校長を務めていた5月初旬のこと。

「校長先生、タンポポには脳みそがないのにどうして知恵をはたらかせることができるの」・・・2年生のあるクラスの子どもたちが大挙して校長室を訪れ、こんな難問を投げかけてくれた。国語の教科書に載っている「たんぽぽのちえ」を勉強してぶつかった疑問であるとの説明もあった。

あいにく(私にとって実は幸い)来客中で、もう一度昼休みに出かけてもらうことにした。お客様が帰られた後、まず2年生の国語の教科書に当たり、私の「知恵」をしぼった。久し振りに脳みそに汗をかいて導いた説明を演題用のロール紙4mほどにまとめ、プレゼン準備完了。

昼休み、校長室に訪れた子どもたちは、壁いっぱいに広げたロール紙を見て歓声を上げた。勝負はそこからだ。・・・やがて説明はロール紙の右端まで来た。

「・・・というわけで、タンポポは植物で、脳みそはないけど生きるためのすごい仕組みがあるでしょう。まるで知恵をはたらかせて生きているみんなたち『みたい』だよね。」

理科的な説明を抜きにして、「~みたい」であることを強調しながら、さらなる決定打を試みた。

当時校長室には、恩師からいただいて大事に育てていたヤツガシラ(サトイモ科)が50cmほどの高さに育ち、涼しげに葉を茂らせていた。

「ここにあるヤツガシラという植物にも『知恵』がありそうだよ。今ヤツガシラの葉っぱはどっちを向いているかな。」

「明るい窓の方。」と、子どもたち。

「そうだね。お日さまの光が入ってくる窓の方を向いているよね。これをね、反対向きになるように水盤を回しておくよ。明日の今頃もう一度この葉っぱがどっちの方を向いているか見に来てごらん。」

翌日、昼休みの校長室は大勢の子どもたちに占拠され、次から次へと歓声が上がった。

「脳みそがないのにお日さまの光がどっちからいっぱい届くかわかっちゃう『みたい』だね。まるで知恵のあるみんなたち『みたい』だ。」

 

この2年生の学級が「ちえをはたらかせよう」という学級目標を生み出したのは、その後間もないことであった。

子どもが「どうして」を多発するようになると、親をはじめとする大人たちは結構閉口するものだが、小学2年生が国語の時間に見出した大問題を投げかけられた校長は、このとき心地よい悪戦苦闘をさせていただいた。

 

○ 子どもの心に火をつける私たちでありたい

子どもたちは様々な発見をするが、特に、解決しないではいられない自分事の問題を発見して探究心に火がついた時には、自ら進んで探究の過程を歩み出す。そうなると指導者は大きな交通整理をしたり相談に乗ったりするだけでよくなる。

よって、子どもが本来のActive Learnerぶりを発揮できるような場を提供するのが教師、親、広く言えば大人の務めであるように思う。これは、別に問題解決(的な)学習に限った話ではない。漢字を覚えるのだって、学習者本人が覚えたいという意欲をどれだけ湧き起こしているかが重要で、内面にそういう「火」がついていない場合、学習は往々にして苦痛でしかなくなる。教育の醍醐味は、実は、子どもから学ぶことの感動の深さにあるような気がしている。